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1923.9.3  朴烈、金子文子、代々木富ヶ谷の自宅で世田谷警察署により検束
 

1923.9    不逞社のメンバーが検挙され始める
 

1923.10.20 東京地裁検事局、治安警察法違反容疑で朴烈と不逞社メンバーを起訴
 

1923.10.20 『大阪朝日』記事<不逞鮮人の秘密結社大検挙>
 

1923.10.22 予審判事、予審尋問を始める
 

1923.10.24 朴烈への訊問、陳述を拒否
 

1923.10.27 新山初代、予審尋問で供述を始める
 

1923.11.27 新山初代、病死、危篤状態で獄外に出される、谷中法蔵院に墓碑
 

1924.1.24  金子文子、第六回予審尋問にて朴烈の爆弾入手意図と目的を供述
 

1924.1.30  朴烈第三回予審訊問にて金子文子の供述を認める。
 

「自分が話さないと不逞社の仲間に迷惑がかかる」
 

1924.2.2  朴烈第四回予審訊問
 

1924.2.3  朴烈第五回予審訊問
 

1924.2.4  朴烈第六回予審訊問
 

1924.2.5  朴烈第七回予審訊問
 

1924.2.15  朴烈、金子文子、金重漢、爆発物取締罰則で起訴される
 

1924.2    朴烈論文「日本の権力者階級に与ふ」を獄中で執筆
 

1924.4.2  朴烈第八回予審訊問
 

1924.4.10  朴烈第九回予審訊問
 

1924.5.12  朴烈第十回予審訊問
 

1924.5.20  朴烈第十一回予審訊問
 

1924.7.1  『東亜日報』記事「韓?相は6.24に保釈出獄」「李小岩は1924.6.30早暁ソウルの鍾路警察に検束」
 

1924.12   論文「俺の宣言」執筆
 

1924.12   論文「働かずしてどしどし喰ひ倒す論」執筆
 

1925.3   論文「陰謀論」を執筆
 

1925.3.9  朴烈第十三回、十四回予審訊問
 

1925.5.1  朴烈第十五回予審訊問
 

1925.5.2  朴烈第十六回予審訊問
 

1925.5.3  朴烈第十七回予審訊問
 

1925.5.9  朴烈第十八回予審訊問
 

1925.5.29  朴烈第十九回予審訊問
 

1925.6.6  朴烈第二十一回予審訊問
 

1925.7.7  予審終結決定
 

1925.7.17  検事総長、朴烈と金子文子に対し刑法73条と爆取罰則で起訴


1925.7.18  判事、朴烈と金子文子に対し接見禁止、書類・物品の授受禁止にする
 

1925.7.18  朴烈第一回予審訊問
 

1925.8.2  『朝鮮日報』夕刊、記事「不逞社事件予審を終わる」
 

1925.8.22  朴廷植、証人訊問、大邱地方法院尚州支庁
 

1925.9.3  朴烈第二回予審訊問
 

1925.9.5  朴烈第三回予審訊問
 

1925.9.20  朴烈テキスト<刑務所消息 不逞の烙印>『自我人』第二号掲載
 

1925.9.22  朴烈第四回予審訊問
 

1925.10.12 検事総長小山、大審院第二特別刑事部裁判長判事豊島に大審院公判に付すべきという意見書提出
 

1925.10.28 大審院、公判開始を決定
 

1925.11.11 接見禁止を解く
 

1925.11.12 朴烈、金子文子、山崎今朝弥を私選弁護人として選任
 

1925.11.14 朴烈、金子文子、布施辰治、上村進を私選弁護人として選任
 

1925.11.17 公判準備調書作成のため朴烈に訊問
 

1925.11.20 朴烈、金子文子、中村高一を私選弁護人として選任
 

1925.11.21 『東亜日報』記事「大審院、重大犯人の結婚式」
 

1925.11.25 布施弁護士、結婚届け三通を差入署名捺印を求める
 

1925.11.25 朴烈、金子文子の記事が解禁
 

1925.11.25 『東京日日新聞』夕刊<震災渦中に暴露した朴烈一味の大逆事件>
 

<来月八九両日特別裁判開廷(本日解禁)罪の裏に女!躍動する朴烈が内縁の妻金子ふみ>

<予審免訴十五名><変転の運命から逆徒の友へ><惨苦の中に真っ赤な恋>

<検束で名物の朴夫妻><同志の新山初題は獄死><新山初代 肺患に冒されヤケの生活>

<審問は傍聴禁止 宣告のみ公開><朴、筆を傾けて獄中に自叙伝 雑誌『自我人』にも寄稿>写真

<大逆事件の首魁朴烈とその筆蹟>
 

1925.11.25 『東京朝日』夕刊<震災に際して計画された 鮮人団の陰謀計画>

<近く刑務所で正式の結婚><自叙伝を書く文子と読書にふける朴烈>
 

1925.11末か12初め 接禁解除後、中西伊之助が朴烈に面会
 

1925.12.3  朴烈、金子文子、晋直鉉を私選弁護人として選任
 

1925.12.6 『東亜日報』記事<正式結婚、手続き>
 

1925.12.7 『東亜日報』記事<結婚に関して>
 

1925.12.11 『朝鮮日報』記事<獄中結婚は風説>
 

1925.12.14 『東亜日報』記事<書面上の結婚だけだろう>
 

1925.12.16 <鑑定人の報告>市ヶ谷刑務所内診察室に於て被告と初めて対顔

………「私はパックヤールです。併し私は鑑定の通知書を送り返し、

同時に鑑定を拒否する旨を既に大審院に申し送ってあるのに、

それに対しまだ何等の返事を受取りません故に私は大審院より何等かの返事を受取るまでは鑑定を受けることは断然謝絶します」
 

1925.12.22 論文「所謂裁判に対する俺の態度」執筆
 

1926.1   「朴烈君のことなど 冬日記」中西伊之助『文芸戦線』掲載
 

1926.1.18  朴烈、裁判長に対し法廷での四条件を提出
 

1926.1.19  『朝鮮日報』記事<条件を提出したこと>
 

1926.1.20  『東亜日報』記事<条件を提出したこと>
 

1926.2.13  朴烈、朝鮮大邱の弁護士、金完燮に公判出席を要請
 

1926.2.25  朴烈、朝鮮大邱の金完燮を私選弁護人とする届け
 

1926.2.26  第一回公判、大審院、人定質問
 

1926.2   再結成された黒友会を中心に傍聴等の支援
 

1926.2.26  文子手記「二十六日夜半」執筆
 

1926.2.27  第二回公判、金子文子手記朗読、検事論告死刑求刑
 

1926.2.28  第三回公判、弁護人弁論、日曜開廷には反対があった
 

1926.3.1  第四回公判、弁論文子の最終陳述、朴烈はしなかった
 

1925.3.4  『東亜日報』社説「朴烈の思想行為と環境 牧野裁判長の観察」
 

1926.3.17 『朝鮮日報』社説「朴烈事件に鑑みて」安在鴻、執筆
 

1926.3.20 『自我声』(「CHIGASEI」と欄外にローマ字標記)創刊号  

在大阪の朝鮮アナキストが発行「強者の宣言」朴烈、ほとんど伏字。

後に『叛逆者の牢獄手記』に所収の同タイトルのテキストか?

「朴烈特別公判」朝鮮礼服に身を飾り朴烈事朴準植法廷に立つ 傍聴禁止 

二月十六日午前九時大審院法廷で開廷された。…この日鮮人及主義者検束十数名、

警戒の厳重なる大阪のギロチン團公判と東西共に近時稀に見る有様なりき。(高)

「ギロチン團控訴判決」「編集後記」朝鮮文で発行の予定が日文、とある。
 

1926.3.23  結婚届けを出す
 

1926.3.25  死刑判決
 

1926.3.29 『大阪朝日新聞』

<恩赦も知らぬ獄中の朴夫妻 きのうきょうの生活は?流石に夫を案ずる文子>

……判決後四日間、外界の何事も知らず市ヶ谷刑務所の独房で妻と夫も名ばかりで

会うこともならずただ黙々として静かな日を過ごしている、このごろの彼等への差入は、

朝鮮からはるばる出てきた晋直鉉弁護士が食事の全部を負担し差入ているが、朴は

朝は牛乳一合にパン一片、昼は三十五錢の弁当、夜は官弁という質素な食事に反し

て、文子は朝は鶏卵二つに五十錢弁当に特に許されて菓子が添えられている、朴は

晋弁護士の五十錢弁当が贅沢だからとて安いのに代えたもので、それとは知らぬ文

子はさすがに夫を案じ「朴は肉類が好きだからなるべく肉食をさせてくれ」と註文をし

てきたので、差入屋もこのごろは註文に添ってはしりの野菜類等を入れてやっている

と、しかし判決言渡後は一切面会は両人とも拒絶せられている、ただその中で山梨

県から出てきた文子の母たか子は、特に許され、判決当時僅か五分間変り果てた娘

の顔を見ることができたが、これもただ涙だけで、深く語る暇もなく母親は刑務所を出た、

一方また朴は判決後は読書も余りせず、密かに死の準備を急ぐのか公判第一日に着た

朝鮮礼装一揃えをまづ二十七日夕方差入屋に戻し、文子も書き続けていた生立の記が

完成したので伊藤野枝全集を読み耽っているというが、彼女のためには食事を除いた身

の廻りを小説家中西伊之助君夫妻が何くれと世話をやき、判決当時文子はふだん着で

よいというので中西夫人はわざわざ自分の着物を脱いで贈ってやった、なお刑務所内の

最近の生活について秋山所長は「全体としては別に変ったこともないようで、朝六時に起

き夜八時の就寝まで元気というよりもむしろ静かに読書や手紙を認めて過ごしていますが、

……自分が判決当時会って気持ちを聞いた時には、ただ何も感想はありませぬ、と語って

いました、……」 1926.3.30 『東京朝日』記事「23日に結婚届けを出す」
 

1926.4.5  「恩赦」で無期懲役に減刑
 

1926.4.6  朴烈、千葉刑務所に移監
 

1926.4.6  朴烈、絶食を始める<「金子文子の自殺と恩赦前后の処遇」
 

布施文書には6日恩赦伝達後からと記されている>
 

1926.4.14  千葉刑務所長、絶食中止を説得
 

1926.4.15 『朝日新聞』記事<千葉刑に送られると朴烈は絶食を始める>
 

1926.5   「思出の朴烈君の顔」里村欣二『文芸戦線』掲載
 

1926.6   『朝鮮時論』創刊号、在朝鮮日本語雑誌「朴烈事件に鑑みて」の翻訳掲載
 

1926.7.23 金子文子死亡、宇都宮刑務所栃木支所 現在地は栃木市立文化会館と図書館、

栃木駅から徒歩10分余り2003年7月23日 現地確認、刑務所跡を示す碑は無し、

舎房棟跡は文化会館正面入口前広場
 

1923.7.23以降 布施弁護士は朴列に面会、文子の死を伝えた瞬間に面会を打ち切り
 

1926.7.29  朴烈、金子文子の取調べ中の写真をめぐり怪文書が配布される
 

1926.8   不逞社のメンバーであった張祥重、鄭泰成が黒友会組織<『朴烈』より>
 

1926.8.11  立松懐清予審判事、快写真問題で引責辞職
 

1926.8.16 朴烈の兄、朴廷植、息子を伴い東京に着く
 

1926.8.29 朴烈の兄、朴廷植が朝鮮に戻る
 

1926.8.30 『京城日報』<文子の葬儀は純朝鮮式で行う 写真はまだ見ない……と 

朴廷植釜山で語る>「釜山特電」獄中の実弟朴烈に会い、金子文子の遺骨を受取る

ため本月十四日夜東京に向った朴烈の実兄朴廷植は二週間振りで二十九日朝実子

朴烱來(一二)をともないカーキ色の労働服にささやかなバスケット一個を携えて釜山

に上陸したが官憲の監視の中に二三鮮人青年からいたわる様に出迎えられひそひそ

ばなしの後九時十分発特急で大邱に向ったが朴廷植は語る、弟には身体の具合が悪

いというので面会ができなかったがいづれまた健康でも快復すれば面会に行きたいつ

もりです、文子の遺骨は私が直接持って帰るはずであったが、警視庁から受取ってか

ら別送する方が安全だというので遺骨は警視庁に頼みましたがも早郷里についている

でしょう、文子は私の弟の嫁として郷里で朝鮮式の葬儀をいとなんでやりますがその日

の取はまだきめておりません、内地からはだれも来ないでしょう。写真のことについては

弟から送ってやるとのことで手紙は来ていましたが私はまだ見たこともありません、子供

は布施弁護士が養成するという様なことは噂で私の通譯のために連れて行ったまでで

す。朴廷植は直に北行したが同人は二十九日大邱に一泊する予定だと
 

1926.9.14  『東京日日』記事「石黒鋭一郎手記、快写真の件」
 

1926.9.20  司法省、快写真の経緯を発表、真相を認める
 

1926    『政争化したる朴烈問題 』江渡由郎、青年政治協会 (青年パンフレット 第3輯)
 

1926    『朴烈問題の批判』鶉山学堂
 

1926    『若槻内閣と不景気・朴烈事件と憲政会内閣』豊島新聞社
 

1926.12.24 今村東京地裁所長無罪を宣告されるも、検事控訴される
 

1927.2   秋山市ヶ谷刑務所所長、大審院懲戒裁判所で無罪確定 秋山所長、奥村看守長懲戒処分を受ける
 

1928   「強者の宣言」朴烈、『叛逆者の牢獄手記』行動社同人編に掲載
 

1934.12   「入獄中のアナキスト朴烈の動静」『特高月報』内務 省警保局保安課、
 

1935   「大逆事件犯人朴烈の思想転向」『社会運動の状況』内務省警保局
 

1935.4  「入獄中のアナキスト朴準植の思想転向」『特高月報』内務省警保局保安課、
 

1935.8.9  『東京日日』記事「朴烈転向、新聞雑誌の閲読禁止」
 

1936.8   小菅刑務所に移される
 

1938.9   「朴烈の所感」朝鮮総督府高等法院検事局思想部『思想彙報』第16号
 

1943.8    秋田刑務所に移される、大館支所?