2015年8月12日  「柳子明(ユザミョン)先生逝去三〇周期追慕」学術セミナー

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「義烈団」の活動を背景にした映画

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「義烈団」の活動をベースにした
『暗殺』は韓国の国会議事堂の敷地内のホールで鑑賞『密偵』だけが未見。
岩波新書のチョキョンダルさんの著作二点も購入。
以下は2008,9年頃にブログにアップデート
韓国映画「アナキストたち」
二〇〇〇年五月はじめ、ソウルの中心街の映画館で韓国の若いアナキストたちと共にみた。
封切りは四月二九日。韓国語はわからないままアクション映画としての側面を楽しんだ。
映画館は満員。日帝の軍人が攻撃されるたびに観客席はどよめいた。
その数日前、一九二〇年代の著名なアナキスト友堂(イ・フェヨン)記念館にある国民文化研究所を訪ねたおり、この映画「アナキストたち」が話題となった。
新聞でも大きく話題になり、国民文化研究所のイ・ムンチャンさんたちも監修を頼まれたということであった。
しかし義烈団をそのままアナキストたちと重ねたタイトルには批判的であった。
七〇代、四〇代、一〇代のソウルのアナキストたち皆同意見であった。
二〇〇二年二月、韓国語版のビデオを送ってもらい再び見た。
二〇〇五年春、渋谷を皮切りとした韓流映画祭での限定的な劇場公開を契機としてDVDが発売された。
日本公開でのタイトルは「アナーキスト」。
(原題ハングルは複数形とのこと、また英文でも「ANARCHISTS」と複数形でハングルタイトルの下に付されている)。
監督はユ・ヨンシク、脚本はパク・チャヌク、「JSA」「オールドボーイ」も手がける。
真っ先に注文、日本語字幕、あるいは吹替えでようやく見ることができるようになった。五年越しで史実に基づいた部分も把握できた。
物語はキム・ウォンボンが一九一九年、当時の「満州」で組織した抗日武装組織「義烈団」の活動を描く。しかし娯楽アクション映画でもあり、主人公たちの恋愛も描かれ、巨額の活動資金の行方やアヘン吸引という波乱要素が組み込まれる。
映画で活躍するのはモスクワ大留学経験の虚無主義者セルゲイ(チャン・ドンゴン)、
朝鮮王家の末裔、ロマンチックなヒューマニスト、
詩人でトルストイを崇拝するイ・グン(チョン・ジュンホ)、
マルクス・レーニンから理念の洗礼を受けた冷静な革命家ハン・ミョンゴン(キム・サンジュン)、
小作人出身の過激な行動主義者トルソク(イ・ボムス)、
少年、サング(キム・イングォン)。
いずれも実在はしないキャラクター設定である。
セルゲイの恋人、カネ子(イェ・ジウォン)は母親が朝鮮人という設定で義烈団へ同情し、アナキズムの本も読む。
しかし時代背景はリアルに描かれ、実在した人物たち、独立運動の著名人、イ・ドンヒ(李東輝)、シン・チェホ、キム・ウォンボン(金元鳳)、キム・グ(金九)の名が出される。 
初の韓中合弁で作られ、六〇万坪の敷地に建設された上海スタジオと近隣都市でのロケが生かされ、一九二〇年代の上海を再現したという。中国人エキストラも動員、三ヶ月の製作期間。
映像は一九四八年、冒頭、ラジオ放送「政府樹立一周年の今日イ・スンマン大統領閣下は……」
「金九まで暗殺して政府を名乗るとは」……「私は死ぬべき時に死ぬことができず……」とサングの回想。
セピア色の二〇年代上海から人々が動き出す。一九二四年の上海。旭日旗と絞首ロープが象徴的にアップされる。両親を日帝に殺されたサングは日本人住区に放火するという復讐行為により逮捕、公開処刑されようとしていた。
日帝軍人のカトウ「我等大日本帝国に抵抗することがどれほど無意味か理解し…」。
街の中、処刑台の周辺に爆弾が投げられ日帝の官憲が撃たれる。
サングは義烈団のメンバーとなる。
「義烈団はなぜ黒を着るのか?」
「社会主義(共産主義という表現を避けているのか)の色が赤ならアナキズムは黒」
「白衣の民族朝鮮の没落を反省するため」というアナキストが黒というイメージを語らせる。
セルゲイも「俺は黒が好きだから」と発言。皆は記念写真を撮りに行く。
サングは写真館の少女リンリンに惹かれる。
サングはトルソクから「義烈団の革命宣言を言ってみろ」と問われる。
上海の街を揃って歩くシーンにかぶらせて革命宣言が激しい口調で発せられる。
「民衆は革命の大本営」「暴力は革命の唯一の武器だ」
「我々は民衆に分け入り絶えざる暴力暗殺で強盗日本の統治を打倒せん」
「我等は不合理な一切の制度を改造し人類が人類を圧迫するを為し得ず社会が社会を収奪するを為し得ない理想の朝鮮を建設する」 
朴烈の大審院公判調書に添付されている翻訳された「宣言」と比較する。訳文の差があるだけで内容は同一である。
「朝鮮革命宣言」はシン・チェホの起草した文である。
「宣言の要旨は吾革命の大本営なり。暴力は我革命唯一の武器なり。吾等は民衆の中に於て民衆と携手して不絶暴力暗殺、破壊暴力を以て強盗日本の統治を打倒し、吾等生活に不合理なる一切の制度を剥削すべからざる理想的朝鮮を建設するに在り。」
映画では引用されない他の部分を紹介する。民衆の自立した意識による革命をめざすということである。
「今日の革命を以つて論ずれば、民衆が民衆自己の為に為す革命なるを以つて民衆革命又は直接革命なりと称す。」
「……吾等の革命の第一歩は民衆覚悟の要求なり。然らば民衆が如何にして覚悟をすべきや。民衆は神人聖人又は英雄豪傑が出て民衆を覚悟せしむべき指導に依て覚悟するものにあらず。唯民衆が民衆の為に一切の不平、不自然、不合理なる民衆向上の障碍を打破するを以て民衆を覚悟せしむる唯一の方法とす。」
「換言すれば、即ち先覚の民衆が民衆全体の為に革命的先駆者たるを民衆覚悟の第一路とす。」
「……暴力、暗殺、破壊、暴動の目的物を大略挙ぐれば、一、朝鮮総督及各官公吏 二、日本天皇及各官公吏 三、探偵奴、売国賊 四、敵の一切の施設物」
セルゲイは不明な死を遂げる。葬儀の場面。「日本人は関東大震災で六千人を超す同胞を無残に殺しました」と語られる。
アジトでは方針をめぐって論議が起きる。トルソクが「俺に朝鮮総督と天皇をやらせてください 俺が息の根を止めてやる」と幹部に迫る。トルソクは「革命宣言」を履行しようとの発言であった。
港のシーン。幹部は「義烈団は左翼の拠点である広州に活動を移す」
「我々は今後組織化された大規模な蜂起を目標にする」
「諸君も社会主義(共産主義と読み替えるべき)革命家として生まれ変わってほしい」。
それに対して「我々はアナキストです社会主義(共産主義)は独裁だ」
「無政府共産の理想社会実現」。
幹部は「しかし個人テロにはもう望みがないことを知るべきだ」
「例え天皇を殺しても息子に代わる」。
幹部は(君等は)「自由の身だ」(しかし)
「義烈団を名乗ることは許さん」と発言。
黄昏時、イ・グンが上海港の沖合いを見つめながらサングに語る。
「アナーキーの語源を知っているか」
「ギリシャ語でアナルキアあるいはアナルコス」
「船長をなくした船乗りたち」。 
日本の軍人、高級官僚が乗船する船を攻撃する計画がたてられる。船内では日の丸を背景に日帝軍人が撃たれる。しかし反撃され、ハン・ミョンゴン、イ・グン二人の義烈団員は殺される。 
再びサングの回想。出獄してくると祖国は解放されていた。
「キム団長は共産主義者として拷問される。」
「今日、私はイ・スンマンと共に同志たちと再会する」。エンディング。
現実の「義烈団」はどうであったか。
希少な文献の翻訳、『金若山と義烈団』(朴泰遠著、四七年ソウル刊、金容権訳、皓星社、八〇年八月)により上海での活動、一九二四年の動きを探ってみる。
一九一九年にキム・ウォンボンが二一歳で義烈団を創設したとき同志は総勢一三名。
二五年まで数百の事件、数千人が関わっていたという。
爆弾製造の熟練者ハンガリー人マザールの存在も記述されているが、映画でも冒頭、アジトで紹介されている。「彼はマジャール。武器を調達してくれる」。
同書で上海の活動が記されているのは上海黄浦灘事件、一九二二年三月の陸軍大将田中義一暗殺未遂事件だけである。
(梶村は『義烈団と金元鳳』一九八〇年、著作集収載、において二三年九月の「上海爆弾押収事件・五〇個」を記している)。
田中が上海に立寄るのを知ったキム・ウォンボンは上海に滞留しているすべての同志を一堂に集めた。そして三名を選び、拳銃と爆弾を用意する。
船から降りた直後に狙撃するが失敗してしまう。
二四年の大きな行動は一月五日の東京における二重橋爆弾事件、金祉變が二重橋まで至り爆弾三発を投げるも二発は不発、一発は爆発するが威力は小さかった。
無期懲役の判決を受けるが二八年二月、獄中で突然死。
刑務所は脳溢血と発表、四四歳であった。朝鮮総督府の丸山警務局長によると義烈団の中核団員は二、三〇名。(梶村は官憲資料から二四年当時は七〇名程度と記述)。
しかし団員がそれぞれ別の名の団体を組織し二、三百名が活動していたという。スバイ対策もあり幹部団員以外は自分が義烈団員であるかないかもわからないという仕組みになっていた。
二三年三月、二四年一月と多くの同志が検挙、二五年三月には団内のスパイを処刑と記述。
そして二五年、一部の同志の反対はあったがキム・ウォンボンは従来の少人数単位の武装闘争路線を放棄し、組織的な軍事を学ぶことを提起する。本人自ら偽名で黄浦軍官学校に入学、軍隊組織を学ぶ。
その後の義烈団は梶村の論文によると「二八年一一月、朝鮮義烈団中央執行委員会の名で協同戦線論をふまえ『創立九周年を記念しながら』を発表、共産主義者の指導組織との連携を強調し、ボルシェビズムの側により接近」「二九年か三〇年にキム・ウォンボンは朝鮮共産党を除名になった安光泉と朝鮮共産党再建同盟をつくる」としている。
キム・ウォンボンは抗日闘争を貫いた後、引き続き共産主義に同調、朝鮮民主主義共和国建国過程に参与、五七年最高人民会議常任委員会副委員長に選任、五八年引退以降の消息は不明。
路線変更に反対した一人、アナキストの柳子明は二一年に義烈団に加わり、文案の起草や整理にも関与したという。(『人名事典』では立項されているが二一年加盟や路線反対には触れていない)。
韓国内での公開当時の評価を紹介する。
「アナキストとは? 船長のいない船のクルーの群れ、という語源のギリシャ語アナキアから出たアナキストは無政府主義者を意味する。彼らの思想の『アナキズム』は民族主義でも共産主義でもない第三の思想であり、権力のない支配されない社会建設を主唱し、テロ活動に力を注いだのが最も大きな特徴だ。」
この認識は義烈団とアナキストたちを同一視している。
「アナキスト(無政府主義者)は現実感のない耳慣れない単語中のひとつだ。半世紀を越す冷戦体制が支配している分断国家で、彼らが足を付けられる土地は事実上なかった。」
「新鋭ユ・ヨンシク監督がメガホンを持った映画『アナキスト』は植民地からの解放以後、韓国・北朝鮮の理念対立の構図の中で忘れられつつある一九二〇年代のアナキストの生を扱った点から『歴史の復元』という、意味ある作業をなし遂げた。」
「上海、黒いコートを着て中折帽を押さえて青年らが歩んでくる。顔には虚無と憂いが現れている。眼差しは鋭い、彼らを覆った空気は尋常でない。死を覚悟したように悲壮だ。」「映画 『アナキスト』はアナキストのキャラクターをこのように浪漫的に描いた。革命のためにならば愛も命も捨てるテロリスト。アナキズムの専門家である東国大の教授(哲学)は映画『アナキスト』に対して『アナキストのキャラクターを歪曲しているにもかかわらずアナキズムを下位文化・抵抗文化・反文化の表象に浮上させるのに一助となった』と話す」と続けてエマ・ゴールドマンの本も紹介される。「アナキズムは保守陣営からはもちろん進歩陣営にも疎外されてきた」「『Anarchism and Other Essays』が原題であるこの本が韓国語訳で 『呪われたアナキズム』と題されて刊行。著者であるエマ・ゴールドマン(一八六九〜一九四〇)は二〇世紀の代表的アナキスト。ロシア出生で米国に移住した後、アナキズム運動を展開する。投獄され市民権まで剥奪された女性だ。一九一〇年に刊行したこの本は難解なアナキズムの概念を比較的明瞭に叙述したアナキズム入門書だ。」
「民族陣営と共産主義者、そしてアナキストが共存した。この内のアナキストらは、暴力とテロを通じて日本帝国に真正面から対抗した歴史の中に実存した。彼らは日帝の力がおよばなかった中国の上海のフランス租界を根拠地にして一九二〇年代初めに 三〇〇余件のテロを敢行した。」「映画『アナキスト』はニム・ウェイルズの『アリラン』などを土台に、五名のアナキストを架空に作り出した。」
抗日武装闘争は「テロ」なのであろうか? さらにアナキズムと「テロ」を短絡的に結びつけられてしまう。後に明確なアナキズムの立場にたつシン・チェホが義烈団の綱領といえる「朝鮮革命宣言」を起草したこと、柳子明という優れたアナキストが主要団員として存在していた事実はあるが、義烈団をアナキスト、アナキズムと二重写しにするのは無理がある。キム・ウォンボンは創設者であり象徴として義烈団を統括していた。そのキム・ウォンボンは強固な民族主義から共産主義に同調していった。
当初は、梶村が次に分析しているような組織性であったのだろう。「…アナキズム・ボルシェビズムと接する機会はしばしばあったはずだが、そのいずれかに分化しきってしまうことを敢えて避ける姿勢をとっていたといえよう。…また、よくまちがえられているが、アナキズムとの関係も同様であった。…自覚的なアナキスト団体とは別個であり、義烈団がこれと合体したような形跡はない。」著名なアナキストの参加は他にない。
映画は「義烈団」全体の活動を描いていない。二四年の上海に焦点をあてた。義烈団の動向をこう理解しよう。朝鮮本国での前年までの活動がキム・ウォンボンの義烈団としてはピークであった。失敗と弾圧による主要活動家の逮捕、スパイの存在、義烈団の存続が問われていた。関東大震災における六千人以上の朝鮮人の虐殺に対する天皇、日帝への報復行動、二四年一月の金祉變の闘争も実質は失敗であった。二四年の義烈団、キム・ウォンボンは苦悩していた。
映画は「義烈団」の中の一グループを描き、構成する団員の思想を図式的に分けている。
虚無主義者セルゲイ、トルストイを崇拝するイ・グン、共産主義の影響を受けたハン・ミョンゴン、過激な行動主義者トルソク、最年少で思想的には白紙で未来があるサング。
前述した「我々はアナキストです。社会主義(共産主義)は独裁だ」「無政府共産の理想社会を実現させたいのです」をイ・グンに語らせている。
またイ・グンがサングにアナキズムの語源を説明するシーンがある。
これはイ・グンにアナキストを象徴させ、なおかつサングに伝えるという表現であろう。
義烈団内の個々のグループは解散をするがハン・ミョンゴンをリーダー格としたこの一グループは皆最後まで行動を共にしようとする。
ハン・ミョンゴンは本来、キム・ウォンボンの「組織的な蜂起」路線に同調したかったが、自身の病(肺結核か?)で先がないことを自覚し最後の闘いに赴く。
虚無主義者セルゲイは早い段階で死を迎えている。
行動主義者トルソクは乗船する前に警備の官憲をひきつけ銃撃で死す。
イ・グンは「無政府共産の理想社会を実現させたい」と信念を持ち、その目的遂行のため武装行動に起つ。イ・グンとハン・ミョンゴンは日帝の軍人に銃撃され倒される。そして手を伸ばし、つながり死ぬ。
ラストシーンもサングの回想であり、「今日、私はイ・スンマンと共に同志たちと再会する」という「語り」でとじられる。
これはイ・スンマンの暗殺に向かうという暗示である。
現実にはイ・スンマンは四八年以降も生き続けるわけであるから、サングの行為は未遂か失敗に終わるということは見る方は認識してしまう。
解放後も生き残ったサングが選ぶべき思想は「義烈団」綱領ではなくイ・グンの「理想」とするアナキズムなのではないか。
再びの暗殺行動を示唆するまま終わっては、上海港においてイ・グンがサングに「アナキズム」の語源を伝えたシーンは無になってしまう。

朴烈 1902⇒1923

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1902.2.3 聞慶郡麻城面梧泉里に生まれる
 

1908   書堂に通学

1910   公立普通学校入学
 

1915   京城公立普通高等学校入学、日本人教員から幸徳秋水 の天皇暗殺計画の話を聞き思想的影響を受ける
 

1919.3   3.1運動に参加、独立新聞発行、檄文を散布
 

1919.10   学校を中退、故郷に戻った後、東京へ渡る、新聞配達、製ビン工場、人力車夫、ワンタン屋、夜警、深川の立ちんぼう、中央郵便局の臨時配達夫
 

1920.中頃  血挙団を組織 
 

1921.10   義挙団に加入
 

1921.10   本郷駒込で友達と間借り生活
 

1921.11.29 黒濤会、結成
 

1921.11月末か12上旬頃 朴烈が京橋区南小田原町、柴田武福を訪ねる。その晩の朝鮮基督青年会館演説会での演説依頼をする
 

1921.12月上旬か4日、岩佐作太郎方忘年会に出席、柴田、杉本貞一、神田区仲猿楽町カフエ「豊生軒」に立寄り、吉原に泊まる。

翌朝、柴田方で雑談の末「外国には爆弾が在るかと」尋ねる、杉本が答えると「夫れは至極好い物だ、是非夫んな物が欲しい」(杉本は後に出鱈目と供述)
 

1922.1.4  11名の連名で『朝鮮日報』紙、1月4日号に「同友会宣言」を発表
 

1922.2頃  上海臨時政府の一員、崔?鎮から破壊計画 を伝えられる。
 

1922.3.7  秋田雨雀を訪問、『秋田雨雀日記』280頁
 

1922.4   淀橋署に16日間検束。<英国皇太子来訪のため予防拘束>
 

1922.4-5 金子文子と同棲、東京府荏原郡世田谷池尻412 相川新作方二階 現在地 世田谷区池尻2-31-15から17、国道246号下り方向「池尻」バス停辺り

2003年10月、世田谷区立中央図書館調べ、現地確認
 

1922.7.10『黒濤』 創刊号、東京府下世田谷池尻412  黒濤発行所、発行人兼編集人兼印刷人 朴烈 「直接行動の標本」烈生
 

1922.6.5「ボロ長屋の二階より」金子活浪、朴烈「朴烈から」
 

1922.8.10 『黒濤』第二号 「此の態を見て呉れ」烈生 

「思ったこと二つ三つ」ふみ子 

「東支線駐屯の日本軍」烈生 

「ボロ長屋の二階から」金子文子 

「朴烈から」    

「朝鮮光州に印刷職工の罷業」烈 

「栄養研究所所長佐伯博士に」ふみ子
 

1922.8   信濃川虐殺真相調査会が組織され調査委員として参加
 

1922.8頃 新潟現地調査に赴く。<新居格の信濃川虐殺に関する論文に、イニシャルBとあるが朴烈の事か>
 

1922.9.7  調査会主催「新潟県朝鮮人労働者虐殺問題演説会」朴烈は現地調査を報告
 

1922    ソウルの思想研究会から招待され「信濃川虐殺真相報告演説会」に出席
 

1922.9   ソウルで義烈団員周辺にいた、金翰と会う
 

1922.10.2  大島製鋼争議支援
 

1922.11   黒濤会分裂
 

1923.11   黒友会を組織
 

1922.11   再びソウルで金翰と会う。爆弾の件
 

1922.11.7頃  『太い鮮人』第一号 枠外に「フテイ鮮人」と記載

「×××××取締法案」朴烈

 「日本人の自惚れた朝鮮観に就いて」烈生

「破れ障子から」金子文子、朴烈 『太い鮮人』はモット早く出る筈だったが朴烈が例の信濃川の

虐殺事件で現場へ行ったり所用有って朝鮮落ちをしたりで遅れた

1922.12.19 頃 『太い鮮人』第二号

「亞細亞モンロー主義に就いて」朴烈

 「所謂不逞鮮人とは」朴文子

「学者の戯言」烈生 

「破れ障子から」文子

去四日朴烈が京城から病魔に護衛されて帰ったりオマケに十五日許り寝込まれたので

スッカリ喰い違って四苦八苦の揚句ヤット今日印刷屋へ廻すべく漕ぎつけた

「朝鮮の詐欺共産党」烈生 

「朝鮮古代芸術を排す」烈生
 

1923.1   秘密結社、血拳団組織
 

1923.1   ソウルで金翰と会い爆弾入手依頼
 

1923.3   黒友会機関紙『民衆運動』朝鮮文、創刊 
 

1923.3.15  『現社会』第三号 世田谷池尻412 「××」烈生  

註 タイトル、本文テキスト全て潰れていて不明。「×もなし」

「働かずにどんどん食ひ倒す論」朴烈、

後に獄中で執筆する同タイトルの論文とは内容が異なる 

「在日鮮人諸君に」金子ふみ 

「朝鮮○○記念日」金子ふみ

「破れ障子から」文子
 

1923.3   金子文子と東京府豊多摩郡代々幡町代々木富ヶ谷1474 番地に移る。

現渋谷区富ヶ谷1-28 NTT裏辺り 2003年5月 現地確認
 

1923.4   不逞社を組織
 

1923.4   東亜日報主筆、張徳秀への殴り込みで神田署に検挙される、

市ヶ谷刑務所に送られ既決囚扱いで頭髪を刈ろうとする看守と乱闘
 

1923.5.1  金子文子はメーデーに参加
 

1923.5   来日したばかりの金重漢に爆弾運搬依頼
 

1923.5.21  朴烈、新山初代を訪問、不逞社への入会を勧める。 

本郷区駒込蓬莱町一八、現文京区向丘二丁目、2002.11確認
 

1923.5.27  不逞社第一回例会、朝鮮の運動がテーマ
 

1923.6    金重漢に爆弾の件を取り消し
 

1923.6.10  不逞社第二回例会、望月桂を招く
 

1923.6.17  不逞社第三回例会、加藤一夫を招く
 

1923.6.28頃 不逞社第四回例会、中西伊之助出獄歓迎会
 

1923.6.30  『現社会』第四号 
 

代々木富ヶ谷 「朝鮮の民衆と政治運動」朴烈

「朝鮮の衡平社運動に就いて」朴烈

「スッパ抜キ」バクレツ 

「或る会話」金子ふみ 

「破れ障子から」文 実は同志十名許りが……メーデーの夕方丁度にも再び裟婆へとオッポリ出された……

……メーデーの日、私は他四五名の同志と共に……愛宕署の御厄介になって……一夜を明かした……… 

府下代々木富ヶ谷1474 現社会社 省線原宿、市電渋谷下車 名教中学下 <現東海大附属高校>
 

1923.7.15  不逞社第五回例会、親日派の『東亜日報』記者を殴る
 

1923.8.3   黒友会主催「朝鮮問題演説会」神田基督教青年会館で開く
 

1923.8.10  黒友会、臨時例会、解散を決める、金重漢が爆弾計画の話を暴露 
 

1923.8.11  不逞社第六回例会、馬山のストライキの話題、金重漢と論争
 

1923.8.29  警視庁が新山初代を訪れ不逞社の動向を訪ねる   
 

1923.9.1  午前中、滝野川、高麗社にいる張祥重を訪問
 

1923.9.2  四ツ谷の布施弁護士を訪ねる










































































































 

朴烈 1923⇒1945

316


1923.9.3  朴烈、金子文子、代々木富ヶ谷の自宅で世田谷警察署により検束
 

1923.9    不逞社のメンバーが検挙され始める
 

1923.10.20 東京地裁検事局、治安警察法違反容疑で朴烈と不逞社メンバーを起訴
 

1923.10.20 『大阪朝日』記事<不逞鮮人の秘密結社大検挙>
 

1923.10.22 予審判事、予審尋問を始める
 

1923.10.24 朴烈への訊問、陳述を拒否
 

1923.10.27 新山初代、予審尋問で供述を始める
 

1923.11.27 新山初代、病死、危篤状態で獄外に出される、谷中法蔵院に墓碑
 

1924.1.24  金子文子、第六回予審尋問にて朴烈の爆弾入手意図と目的を供述
 

1924.1.30  朴烈第三回予審訊問にて金子文子の供述を認める。
 

「自分が話さないと不逞社の仲間に迷惑がかかる」
 

1924.2.2  朴烈第四回予審訊問
 

1924.2.3  朴烈第五回予審訊問
 

1924.2.4  朴烈第六回予審訊問
 

1924.2.5  朴烈第七回予審訊問
 

1924.2.15  朴烈、金子文子、金重漢、爆発物取締罰則で起訴される
 

1924.2    朴烈論文「日本の権力者階級に与ふ」を獄中で執筆
 

1924.4.2  朴烈第八回予審訊問
 

1924.4.10  朴烈第九回予審訊問
 

1924.5.12  朴烈第十回予審訊問
 

1924.5.20  朴烈第十一回予審訊問
 

1924.7.1  『東亜日報』記事「韓?相は6.24に保釈出獄」「李小岩は1924.6.30早暁ソウルの鍾路警察に検束」
 

1924.12   論文「俺の宣言」執筆
 

1924.12   論文「働かずしてどしどし喰ひ倒す論」執筆
 

1925.3   論文「陰謀論」を執筆
 

1925.3.9  朴烈第十三回、十四回予審訊問
 

1925.5.1  朴烈第十五回予審訊問
 

1925.5.2  朴烈第十六回予審訊問
 

1925.5.3  朴烈第十七回予審訊問
 

1925.5.9  朴烈第十八回予審訊問
 

1925.5.29  朴烈第十九回予審訊問
 

1925.6.6  朴烈第二十一回予審訊問
 

1925.7.7  予審終結決定
 

1925.7.17  検事総長、朴烈と金子文子に対し刑法73条と爆取罰則で起訴


1925.7.18  判事、朴烈と金子文子に対し接見禁止、書類・物品の授受禁止にする
 

1925.7.18  朴烈第一回予審訊問
 

1925.8.2  『朝鮮日報』夕刊、記事「不逞社事件予審を終わる」
 

1925.8.22  朴廷植、証人訊問、大邱地方法院尚州支庁
 

1925.9.3  朴烈第二回予審訊問
 

1925.9.5  朴烈第三回予審訊問
 

1925.9.20  朴烈テキスト<刑務所消息 不逞の烙印>『自我人』第二号掲載
 

1925.9.22  朴烈第四回予審訊問
 

1925.10.12 検事総長小山、大審院第二特別刑事部裁判長判事豊島に大審院公判に付すべきという意見書提出
 

1925.10.28 大審院、公判開始を決定
 

1925.11.11 接見禁止を解く
 

1925.11.12 朴烈、金子文子、山崎今朝弥を私選弁護人として選任
 

1925.11.14 朴烈、金子文子、布施辰治、上村進を私選弁護人として選任
 

1925.11.17 公判準備調書作成のため朴烈に訊問
 

1925.11.20 朴烈、金子文子、中村高一を私選弁護人として選任
 

1925.11.21 『東亜日報』記事「大審院、重大犯人の結婚式」
 

1925.11.25 布施弁護士、結婚届け三通を差入署名捺印を求める
 

1925.11.25 朴烈、金子文子の記事が解禁
 

1925.11.25 『東京日日新聞』夕刊<震災渦中に暴露した朴烈一味の大逆事件>
 

<来月八九両日特別裁判開廷(本日解禁)罪の裏に女!躍動する朴烈が内縁の妻金子ふみ>

<予審免訴十五名><変転の運命から逆徒の友へ><惨苦の中に真っ赤な恋>

<検束で名物の朴夫妻><同志の新山初題は獄死><新山初代 肺患に冒されヤケの生活>

<審問は傍聴禁止 宣告のみ公開><朴、筆を傾けて獄中に自叙伝 雑誌『自我人』にも寄稿>写真

<大逆事件の首魁朴烈とその筆蹟>
 

1925.11.25 『東京朝日』夕刊<震災に際して計画された 鮮人団の陰謀計画>

<近く刑務所で正式の結婚><自叙伝を書く文子と読書にふける朴烈>
 

1925.11末か12初め 接禁解除後、中西伊之助が朴烈に面会
 

1925.12.3  朴烈、金子文子、晋直鉉を私選弁護人として選任
 

1925.12.6 『東亜日報』記事<正式結婚、手続き>
 

1925.12.7 『東亜日報』記事<結婚に関して>
 

1925.12.11 『朝鮮日報』記事<獄中結婚は風説>
 

1925.12.14 『東亜日報』記事<書面上の結婚だけだろう>
 

1925.12.16 <鑑定人の報告>市ヶ谷刑務所内診察室に於て被告と初めて対顔

………「私はパックヤールです。併し私は鑑定の通知書を送り返し、

同時に鑑定を拒否する旨を既に大審院に申し送ってあるのに、

それに対しまだ何等の返事を受取りません故に私は大審院より何等かの返事を受取るまでは鑑定を受けることは断然謝絶します」
 

1925.12.22 論文「所謂裁判に対する俺の態度」執筆
 

1926.1   「朴烈君のことなど 冬日記」中西伊之助『文芸戦線』掲載
 

1926.1.18  朴烈、裁判長に対し法廷での四条件を提出
 

1926.1.19  『朝鮮日報』記事<条件を提出したこと>
 

1926.1.20  『東亜日報』記事<条件を提出したこと>
 

1926.2.13  朴烈、朝鮮大邱の弁護士、金完燮に公判出席を要請
 

1926.2.25  朴烈、朝鮮大邱の金完燮を私選弁護人とする届け
 

1926.2.26  第一回公判、大審院、人定質問
 

1926.2   再結成された黒友会を中心に傍聴等の支援
 

1926.2.26  文子手記「二十六日夜半」執筆
 

1926.2.27  第二回公判、金子文子手記朗読、検事論告死刑求刑
 

1926.2.28  第三回公判、弁護人弁論、日曜開廷には反対があった
 

1926.3.1  第四回公判、弁論文子の最終陳述、朴烈はしなかった
 

1925.3.4  『東亜日報』社説「朴烈の思想行為と環境 牧野裁判長の観察」
 

1926.3.17 『朝鮮日報』社説「朴烈事件に鑑みて」安在鴻、執筆
 

1926.3.20 『自我声』(「CHIGASEI」と欄外にローマ字標記)創刊号  

在大阪の朝鮮アナキストが発行「強者の宣言」朴烈、ほとんど伏字。

後に『叛逆者の牢獄手記』に所収の同タイトルのテキストか?

「朴烈特別公判」朝鮮礼服に身を飾り朴烈事朴準植法廷に立つ 傍聴禁止 

二月十六日午前九時大審院法廷で開廷された。…この日鮮人及主義者検束十数名、

警戒の厳重なる大阪のギロチン團公判と東西共に近時稀に見る有様なりき。(高)

「ギロチン團控訴判決」「編集後記」朝鮮文で発行の予定が日文、とある。
 

1926.3.23  結婚届けを出す
 

1926.3.25  死刑判決
 

1926.3.29 『大阪朝日新聞』

<恩赦も知らぬ獄中の朴夫妻 きのうきょうの生活は?流石に夫を案ずる文子>

……判決後四日間、外界の何事も知らず市ヶ谷刑務所の独房で妻と夫も名ばかりで

会うこともならずただ黙々として静かな日を過ごしている、このごろの彼等への差入は、

朝鮮からはるばる出てきた晋直鉉弁護士が食事の全部を負担し差入ているが、朴は

朝は牛乳一合にパン一片、昼は三十五錢の弁当、夜は官弁という質素な食事に反し

て、文子は朝は鶏卵二つに五十錢弁当に特に許されて菓子が添えられている、朴は

晋弁護士の五十錢弁当が贅沢だからとて安いのに代えたもので、それとは知らぬ文

子はさすがに夫を案じ「朴は肉類が好きだからなるべく肉食をさせてくれ」と註文をし

てきたので、差入屋もこのごろは註文に添ってはしりの野菜類等を入れてやっている

と、しかし判決言渡後は一切面会は両人とも拒絶せられている、ただその中で山梨

県から出てきた文子の母たか子は、特に許され、判決当時僅か五分間変り果てた娘

の顔を見ることができたが、これもただ涙だけで、深く語る暇もなく母親は刑務所を出た、

一方また朴は判決後は読書も余りせず、密かに死の準備を急ぐのか公判第一日に着た

朝鮮礼装一揃えをまづ二十七日夕方差入屋に戻し、文子も書き続けていた生立の記が

完成したので伊藤野枝全集を読み耽っているというが、彼女のためには食事を除いた身

の廻りを小説家中西伊之助君夫妻が何くれと世話をやき、判決当時文子はふだん着で

よいというので中西夫人はわざわざ自分の着物を脱いで贈ってやった、なお刑務所内の

最近の生活について秋山所長は「全体としては別に変ったこともないようで、朝六時に起

き夜八時の就寝まで元気というよりもむしろ静かに読書や手紙を認めて過ごしていますが、

……自分が判決当時会って気持ちを聞いた時には、ただ何も感想はありませぬ、と語って

いました、……」 1926.3.30 『東京朝日』記事「23日に結婚届けを出す」
 

1926.4.5  「恩赦」で無期懲役に減刑
 

1926.4.6  朴烈、千葉刑務所に移監
 

1926.4.6  朴烈、絶食を始める<「金子文子の自殺と恩赦前后の処遇」
 

布施文書には6日恩赦伝達後からと記されている>
 

1926.4.14  千葉刑務所長、絶食中止を説得
 

1926.4.15 『朝日新聞』記事<千葉刑に送られると朴烈は絶食を始める>
 

1926.5   「思出の朴烈君の顔」里村欣二『文芸戦線』掲載
 

1926.6   『朝鮮時論』創刊号、在朝鮮日本語雑誌「朴烈事件に鑑みて」の翻訳掲載
 

1926.7.23 金子文子死亡、宇都宮刑務所栃木支所 現在地は栃木市立文化会館と図書館、

栃木駅から徒歩10分余り2003年7月23日 現地確認、刑務所跡を示す碑は無し、

舎房棟跡は文化会館正面入口前広場
 

1923.7.23以降 布施弁護士は朴列に面会、文子の死を伝えた瞬間に面会を打ち切り
 

1926.7.29  朴烈、金子文子の取調べ中の写真をめぐり怪文書が配布される
 

1926.8   不逞社のメンバーであった張祥重、鄭泰成が黒友会組織<『朴烈』より>
 

1926.8.11  立松懐清予審判事、快写真問題で引責辞職
 

1926.8.16 朴烈の兄、朴廷植、息子を伴い東京に着く
 

1926.8.29 朴烈の兄、朴廷植が朝鮮に戻る
 

1926.8.30 『京城日報』<文子の葬儀は純朝鮮式で行う 写真はまだ見ない……と 

朴廷植釜山で語る>「釜山特電」獄中の実弟朴烈に会い、金子文子の遺骨を受取る

ため本月十四日夜東京に向った朴烈の実兄朴廷植は二週間振りで二十九日朝実子

朴烱來(一二)をともないカーキ色の労働服にささやかなバスケット一個を携えて釜山

に上陸したが官憲の監視の中に二三鮮人青年からいたわる様に出迎えられひそひそ

ばなしの後九時十分発特急で大邱に向ったが朴廷植は語る、弟には身体の具合が悪

いというので面会ができなかったがいづれまた健康でも快復すれば面会に行きたいつ

もりです、文子の遺骨は私が直接持って帰るはずであったが、警視庁から受取ってか

ら別送する方が安全だというので遺骨は警視庁に頼みましたがも早郷里についている

でしょう、文子は私の弟の嫁として郷里で朝鮮式の葬儀をいとなんでやりますがその日

の取はまだきめておりません、内地からはだれも来ないでしょう。写真のことについては

弟から送ってやるとのことで手紙は来ていましたが私はまだ見たこともありません、子供

は布施弁護士が養成するという様なことは噂で私の通譯のために連れて行ったまでで

す。朴廷植は直に北行したが同人は二十九日大邱に一泊する予定だと
 

1926.9.14  『東京日日』記事「石黒鋭一郎手記、快写真の件」
 

1926.9.20  司法省、快写真の経緯を発表、真相を認める
 

1926    『政争化したる朴烈問題 』江渡由郎、青年政治協会 (青年パンフレット 第3輯)
 

1926    『朴烈問題の批判』鶉山学堂
 

1926    『若槻内閣と不景気・朴烈事件と憲政会内閣』豊島新聞社
 

1926.12.24 今村東京地裁所長無罪を宣告されるも、検事控訴される
 

1927.2   秋山市ヶ谷刑務所所長、大審院懲戒裁判所で無罪確定 秋山所長、奥村看守長懲戒処分を受ける
 

1928   「強者の宣言」朴烈、『叛逆者の牢獄手記』行動社同人編に掲載
 

1934.12   「入獄中のアナキスト朴烈の動静」『特高月報』内務 省警保局保安課、
 

1935   「大逆事件犯人朴烈の思想転向」『社会運動の状況』内務省警保局
 

1935.4  「入獄中のアナキスト朴準植の思想転向」『特高月報』内務省警保局保安課、
 

1935.8.9  『東京日日』記事「朴烈転向、新聞雑誌の閲読禁止」
 

1936.8   小菅刑務所に移される
 

1938.9   「朴烈の所感」朝鮮総督府高等法院検事局思想部『思想彙報』第16号
 

1943.8    秋田刑務所に移される、大館支所?















































































































朴烈 1945⇒1974

274

1945.10.27 朴烈、秋田刑務所大館支所を出獄、大館駅前で「出獄歓迎大会開かれる」
 

1946     『独立の指導者朴烈』鄭泰成、新朝鮮建設同盟宣伝部、国会図書館所蔵
 

1946?     『新朝鮮建国の指標:独立指導者 朴烈』 
朝鮮半島における自由解放の指導者、

朴烈の獄中詩歌、在日朝鮮人同胞へのメッセージ、日本の新聞に対する声明等を収録した、

"独立指導者 朴烈"、及び、朴烈による新朝鮮建国に対する朴烈の信念・思想を収録した

"新朝鮮建国の指標"を収録。 University of Hawaii at Manoa 「Asia Collection,」

梶山コレクション所蔵
 

1946.12.25  『運命の勝利者朴烈』布施辰治、張祥重、鄭泰成共著 世紀書房
 

1947.2.21「民団新間」創刊号発行
               

1947.5.23 民団第二回大会。団長朴烈、副団長李康勲、元心昌
 

1947.8.23 朴烈「三たび八月十五日を迎へて」『民団新聞』週刊13号、在日本朝鮮居留民団中央総本部
 

1947.8.30 朴烈「留日朝鮮学徒の進路」『民団新聞』週刊14号
 

1947.9.13 朴烈「主張第廿五回関東大震災」『民団新聞』週刊15号
 

…当時自ら「不てい鮮人社」と名乗った我々の同志も文字通り一網打尽に検挙されて有無を言わさず、全く投獄されてしまった。由来ゲーペーウー式の日本帝国主義的陰謀によって裁かれ、私は遂に死刑を宣告され、さらに彼等の勝手な判断によって終身の懲役に処せられ、さらにまた彼等帝国主義の世界戦争敗戦の結果として、二十三年余の獄中から、この明るい社会に出てきたのである。……

無署名記事「関東大震災廿五周年を迎えて」想起すれば当時大地震直後陸軍憲兵司令部の謀略に依り『朝鮮人三万名が日本無政府主義者と内応して日本襲撃に上陸して来た』と言う捏造のデマを廣島より全国に飛ばして置いてそれを口実にかかる不可抗力むの機会を逆用して日本軍部及青年団が白昼公然と国際社会の面前にかかる大事件を三日間も続けて敢行したのである……然しアナキスト系では、天変地異は不可抗力である。…本当の愛と相互扶助との懸念の下に、お互に相あわれむのみであった。…
 

1947.10月1、2日 民団第三回大会(大阪)団長朴烈
 

1947年 張義淑と再婚

1948.8.15 
『新朝鮮革命論』朴烈、中外出版株式会社

目次

自序

第一章 思想立国

第一節世界は一なり

第二節 現実に徹する思想第

三節 共産党を語る第四節死に生くること

第二章建国の指標

第一節独立とは形式ではない

第二節具体的に建国の立地条件を究めよ

第三節戦線統一への方向

第三章青年と民族の運命

第一節立国の支柱としての青年

第二節操志ある青年

第三節高き文化の使徒青年

第四章生活革命運動の展開

第一節民族的欠陥の反省

第二節社会を発見せよ

第三節公式論、原則論を排す

第四節身を以て再起へ

付録一 三千万我等とともに罪あり

二 対日協力者戦争犯罪人等の処断に関する法案をめぐりて

三 祖国の正しき産業建設のために在日業界人の反省を促す

四 前科者、受刑者、現科者

五 祖国愛と国際的観念

六 世界の現実に学び、世界の現実に捉われる勿れ

七 われらは先ず道義の昂揚から

八 小児病的左翼陣の暴挙を排す
 

1948年11月20日 

『政党人に望む』発行人、朴義淑、東京都杉並区阿佐谷一丁目七四六番地、発行所、中野区野方町一丁目七三二番地、朴烈文化研究所
 

1949年4月2日 民団第六回大会、選挙に敗れて団長を辞任
  

1949年 朴烈は家族と共に韓国に向かう。李政権の国務委員となる
 

1950年4月 張義淑は二人の子、長男栄一と長女慶姫を連れて帰国
 

1950年6月25日 ソウルは南下した北朝鮮軍の動きにより混乱状況
 

1950年6月27日  張義淑、大元ホテルに止宿中の朴烈止連絡がとれたのは27日の未明。

「子供たちをつれて、すぐよその家へうつれ。今後連絡が絶えても、革命家の妻として、

恥ずかしく行動をせよ」朴烈はこれだけ言って電話をきった。たまりかねた張義淑が慶姫

(当時8ヶ月)を隣家にあずけ、栄一(2年4ヶ月)をつれて、大元ホテルまでたどりつくと部

屋には朴烈がひとり目をつむったまま座っていた。

「……国民のほとんどがソウルに残っているのに、おれだけ逃げられるか。帰れ」

…… 義淑は秘書に送られて桂洞まで戻る。夜になり雨が降り出した。

もう一度朴烈のところへ行こうと決心。……ホテルに出かけた。やっとたどりついたホテルに朴烈はいなかった。

…夜が更けるにつれ、砲声はいよいよ近く、機関銃が地底からのような音をひびかしている。

午前三時、砲声がやみサイレンが鳴った。北朝鮮軍が中央庁に入った合図にちがいない。

夜が明けると、幾千幾万とも知れぬ足音が聞こえ「人民共和国万歳」の叫びが伝わってくる。

……共産軍に捕らえられた朴烈の居所を察知しようとして西大門刑務所に出かけたのもそのころだった。

「十五年目のエンマ帳その一 朝鮮の人 朴義淑さん」臼井吉見より。朴烈、行方不明になる。

1960年1月「十五年目のエンマ帳その一 朝鮮の人 朴義淑さん」臼井吉見『婦人公論』
 

1960年1月号掲載<再婚相手は東京 女子大で臼井ゼミの学生であった>
 

1963年3月、4月  「朴烈・金子文子事件」森長英三郎『法律時報』 
 

1966年6月   「共産主義者と私」朴烈、『統一評論』掲載

私は一時、日本で社会運動をおこそうと思い、政治団体を組織したことがあった。そして日帝の監獄にぶちこまれて苦労もしてみた。……

 私は共産主義者の幅広い度量とあたたかい同族愛に深く感動させられ、目頭が熱くなる時が一、二度ではなかった。…

 祖国と民族を憂えるすべての人々は、一切の外勢を排撃して、南北が力を合せて祖国の自主的統一を実現する大道を前進しなければならない。
 

1967年    『民団 在日韓国人の民族運動』鄭哲、洋々社
 

1973.7.23  ムンギョン、金子文子の墓所で「碑」の除幕式、朴烈の兄所有の土地
 

1973.9.1  『朴烈』金一勉著、合同出版
 

1974.1.17  朴烈、朝鮮民主主義人民共和国で死去と報じられる
 

1975.8   「春一番」臼井吉見『展望』第200号掲載<解放後の朴烈と再婚、小説>

メモ
 
1版 2003.10.29 

朴烈に関わる文献整理のために作成  改定2版 11.4 『自我人』二号の事項、新山初代の居住地と死去の項を追加


朝鮮語文献、東亜日報、日本語新聞報道、アナキズム機関紙誌に報じられている関連記事は今後の課題 <一部は立項>



金子文子が主となる事項は含めていない。



原テキストに固有名詞の誤記がある場合も、そのまま引用している。

 

2版 2006.8.15

『民団新聞』記事
『統一評論』論文一部引用













































































 


朴烈は爆弾の製造も所持もしていない!

288



爆弾未入手


裁判資料等を基に朴烈の爆弾入手に向けた行動を中心に整理する。

 

一 朴烈は金子と同居する前に爆弾入手を二回依頼している。しかし入手する可能性は元々少なく思いつきの依頼であった。

 

二 朴烈は金子文子と同居後の一九二二年一一月に講演で朝鮮に戻った際に「義烈団」と関係があった独立運動の活動家に入手を依頼している。

その時点で爆弾の使用目的は決められていなかった。この爆弾入手計画は頓挫した。
 

 
予審調書では天皇、皇太子が目標といっているが、金子文子の調書と矛盾があり、具体的な使用計画は決まってなく爆弾入手を優先としていた。

 

三 一九二三年春、朝鮮から来訪して「不逞社」に参加した金重漢に爆弾入手を依頼した。しかし夏になり取り消し、それが不逞社の内輪もめの原因となる。

 

四 金子文子が、認識・承知していた爆弾入手計画は「二」に記述した件だけであるが、予審調書では「三」の件も「承知」していたと認めてしまう。
 
金子は皇太子の結婚式が目標と、承知していなかった「三」の爆弾使用目的まで、予審判事に誘導され、調書上は具体的に語ってしまう。

 

五 金子は一九二六年二月二六日の大審院第一回公判で意見を述べた。

 
承知していた「二」の爆弾入手計画が流れたことを知った時に、「これでよかった」という気持ちを持ったこと、その気持ちを朴烈に伝えなかったことに関して「後悔」したこと、予審で認めた「三」の入手計画を実際は知らなかったこと、知っていれば反対したことを述べる。

 

六 大審院判決では、この金子の意見は否定され、判決理由では金子が「三」の計画は承知していたと認定されてしまう。

 

七 大逆罪、爆発物取締罰則は治安維持のための法律であり、実行行為だけではなく、計画や思想までも裁く範囲に含めている。

 

八 そのため幸徳秋水たちの大逆事件もそうであるが、いったん破綻した「計画」まで、掘り起こされ、予審判事により「計画」が再構成されてしまう。

 

九 金子が朴烈と、皇室を狙うという漠然とした話をしていたのは、一九二二年の秋ごろであり「二」の爆弾入手計画の前までだと、推測できる。

 

 

 

朴烈との距離


獄中手記『何が私をこうさせたか』に記述された朴烈との出会い、獄外の同志である栗原一男への手紙、また大審院に提出された意見書「二十六日夜半」を読むと朴烈への愛情は確たるものでも金子文子はその関係を冷静に振り返り己自身を対象化する思考があったことが判る。

 
金子は朴烈を突き放しているがそれは真の愛情に基づくと理解できる。


朴烈が爆弾を入手するために依頼の動きがあったのは事実であるがことごとく実現しなかった。 


日本帝国の憲法下での爆発物取締罰則はフレームアップを醸成し思想を裁く法であった。

 

 

大審院開廷


一九
二六年二月二六日、大審院で第一回公判が開かれた。


アナキズム系の運動紙『自我声』の創刊号
(三月二〇日発行)は当日の傍聴人への弾圧を記事にした。


この日鮮人及主義者検束十数名、警戒の厳重なる大阪のギロチン團公判と東西共に近時稀に見る有様なりき」。 

 

 

非公開審理

一方、官憲の史料「東宮職特警発第四十六號」(大正十五年三月二日坂口特別警衛係長)に大審院公判状況が報告されている。



「朴烈事件公判状況報告」


「二月二十六日午前二時頃より公判を傍聴せんとして大審院に参集せる栗原一夫、原田利久他主義者及鮮人は午前八時までに約百五十名を簒し午前八時二十分までに傍聴券百五十枚を渡し公判廷に入場をし午前八時半被告入廷午前九時開廷間にして公開禁止せられ傍聴人を退場せしめ休憩午前九時半特別傍聴人百五十名を入場せしめて再開したるが一般傍聴人は特別傍聴を許可せよとて喧噪したるを以て其主義者古川時雄、元心昌、武良二、横山楳太郎、韓吉、椋本運雄、山本勘助の七名を検束して鎮静し退散せしむ」

 つまり同志たちが傍聴のため結集し百五十人が法廷に入ったが非公開となり追い出され、政府関係者が「特別」傍聴人として埋め尽くし大逆の実相を公にさせないという暴虐の法廷を企てたのである。

 

 

裁判の否定

さらに公判の状況を略し引用する。

「午前八時三十分被告人入廷同九時弁護士判検事入廷」。

朴烈は「自分は裁判に対する態度を宣言すると言ひしも阻止せられて」と発言を止められてしまう。


「職業を聴かれて日本の権力者階級に反対する職業なりと答ひ」と闘う意志表明が報告されている。


「九時十分公開禁止の宣言ありて休憩」と一般傍聴人を入廷させながら冒頭の手続きだけで非公開の審理となる。


「九時三十分再開、頭初朴烈は本公判を公開せられ度しと述べんとするや」「布施弁護士は其事に就ては私が言ふと称して公開禁止の異議を申立をなし合議の結果又却下せらる」と被告とされた朴烈、弁護人による公判の公開要求を退けられたことが報告され、続けて「小山検事総長は公訴事実を簡単に述べ」と官憲の報告者によっても大逆罪の事実なるものが内容無き「簡単」なものであったことが吐露されている。


朴烈の意見表明になり「先きに阻止せしたる裁判に対する態度を朗読す」。その趣旨は

「私は一切の権力を認めない裁判も認めない自分を裁く者は自分であると云ふに在り」との記述。 


つまり朴烈は国家の権力を認めない、裁判も認めない、ただ自分だけが自分を裁けると宣言したのである。

朴烈の宣言


307

朗読


裁判長は朴に対し検事の言ふたことに意見があるかと問ひしに朴は俺達の宣言を朗読す(俺達の宣言は「ニヒリズム」の説明に付省略)と前出「東宮職特警発第四十六號」に坂口特別警衛係長による報告が記載されている。三月二日付。

 

俺達の宣言は一九二五年朴烈本人から予審判事に提示されている

 
前年の治安警察法の予審の内容は以下の通りである。


一九二五年
五月二日、第十六回予審訊問で予審判事より爆発物取締罰則と刑法七三条で調べていくという確認がされている。


続けて
翌日の五月三日、第十七回予審訊問で「爆弾投擲時期」に関して訊問がなされる。  


それに対して朴烈は「爆取罰則や刑法七三条はどうでもいい」と応答

「『陰謀論」『一不逞人より日本の権力者階級に与ふ』『俺の宣言』『働かずしてどしどし喰ひ倒す論』を持って来た。君読んで見ると宜い」と獄中で執筆した論文提出しいる。

しかし、その「論文」を予審判事は押収してしまう。

 

 

宣言



公判記録に掲載されている『俺の宣言』から内容を部分引用する

 

朴烈は歴史書や哲学書を読み解釈している

 
人類を「生命慾の塊であり、最も醜悪にして愚劣なる優越慾の塊である。……」と規定「次に──俺の所謂正義とは言ふまでもなく人類相互の生存権の尊重共存共栄である──」として正義とは生存権の確立であると主張

 


続けて「…満州の野原に屍の山を築いた大悪人共を却つてより偉大なる主権者として、此れを壮麗なる記念碑や、神社にまで納めて以つて、崇拝して喜んで居るのである

 
こに朴烈は東北アジア侵略と虐殺の根源に天皇が存在し、それを神としている日本の権力者を批判しているである。

 

 


差別

「又日本民族の権力者階級に依つて制服されて居る朝鮮民族は、一面日本民族の権力者階級の暴戻に対して少なからざる不満を抱いて居りながら、他面自己民族内に於ける所謂白丁部落に対しては、極めて悪辣なる圧制者である
 


日本帝国によって征服されている朝鮮の人々の中にも「白丁」への差別があり圧制者となっている現実を指摘し、


然し俺は、野蛮人の中に美しい真の相愛互助共存共栄の事実を見出す事が出来るだらうか 
人類学 大杉栄の言葉を思へ、『社会は……制服に始まつたのである』」、「ダアヰン、マルサス人口論、ダアヰンの進化論批判レエルモントフの美はしい句を思ふ。シヨペンハウエル、ホツブススチルネル、フアブル、ルツソオ……と相互扶助の精神を語り大杉栄の論文から一文をひき、西欧の論者の批判、評価を連ねていく。

 

 


破戒


滅ぼせ! 総べてのものを滅ぼせ火を付けろ! 爆弾を飛ばせ!毒を振り撒け! キロチンを設けよ! 政府に、議会に、監獄に、工場に、人間の市に、寺院に、教会に、学校に、町に、村に
斯うして総べてのものを滅ぼすんだ。赤い血を以つて最も醜悪にして愚劣なる人類に依つて汚されたる世界を洗ひ清めるんだ。と現社会の解体を宣言する。

 

 

虚無


さうして俺自身も死んで行くのだ。其処に真の自由があり、平等があり、平和があるんだ。真に善美なる虚無の世界があるんだ

 
嗚呼最も醜悪にして愚劣なる総べての人類よ! 有ゆる罪悪の源泉! 何うか願はくば汝等自身の滅亡の為めに幸あれ、虚無の為めに祝福あれ! 


末尾に一九
二四年一二月三〇日執筆日付がある

 

 


法廷


坂口の報告は続く。「次いで公訴事実を肯定して訊問に入る」

 
裁判長は朴烈に爆弾入手を依頼した複数の件で質問を続け、朴烈の思想に関して定義付けを進める。


「次に思想は民族主義より社会主義に夫れより無政府主義に夫れより人生の醜悪を感じて一切の生物の存在を否定する虚無思想になれることを訊し」


「次に思想変遷の理は性格と圧迫に依ることを訊し」


次て皇室に危害を加ふることは虚無思想の実現なりやを訊しを朴は全部之れを肯定して正午休憩」。

 
朴烈は裁判長の意図的な質問に対し天皇打倒の意志を大審院の法廷で明確にする目的をもって肯定していく。

 

金翰(キ厶・ハン)の証言 

302






計画

大審院第一回公判において裁判長は朴烈に対して爆弾入手計画に関して訊問を
なしている坂口特別警衛係長による報告。「東宮職特警発第四十六號」(大正十五年三月二日)

朴烈は予審訊問の一回目から爆弾入手計画があったことを述べている。予審判事はその件を不逞社と結びつけようと追求し始める
 

「皇室の慶事(皇太子の結婚式)」に合わせ打倒の手段として爆弾使用を考えていたというのが予審判事立松懐清によるフレームアップの軸である


その前提である爆弾の存在が重要になるが、朴烈、金子文子の周辺からは爆弾の現物も材料も全く出てこないのであった。


元々、朴烈は自分で製造する意思はなく、機会があれば入手をしたいという願望を常にもっていた。それゆえ爆弾使用計画ではなく、まず爆弾「入手計画」なのである。


爆弾の入手計画であって他者に爆弾が入手できないかという相談、依頼を回しただけである

 
立松予審判事からの追及に対して
朴烈は爆弾入手計画と不逞社とは別問題と応答し不逞社の会員諸君に迷惑をかけない」という理由で入手計画を詳しく話し始めてしまう。(第六回予審訊問一九二四年二月四日)



朴烈はこの時点で朝鮮在住の活動家
金翰に関しては名前を出さずに他の件と意図的に混同させ脚色した内容を語っている。


朴烈は金翰に関して外国から東京の自分を訪ねてきた同志と語っているが実際は当時の京城に在住していた。 


しかし金子文子が一九二四年三月一九日の第九回取調べにおいて別件で既に京城(日本帝国による呼称)の刑務所に在監していた金翰の名と朴烈からの手紙を取り次いでいた朝鮮の女性李小紅の名を出してしまう

 
金子文子は金翰を直接は知らず朴烈からの伝聞であるが「義烈団の金翰」と語ってしまう

 
苦汁の結論であったが朴烈との齟齬もあり多数の同志たちを巻き込まないためにという理由であった。

 

 


金翰は八月になり京城で取調べを受け始めた。一九二四年八月二十日京城地方法院にて東京地裁の立松判事の嘱託に因り朝鮮総督府判事、末広清吉が取調べを行い第一回の訊問調書が作成されている。以降、東京に移送され合わせて一一回の予審尋問が行われた。
 


立松予審判事は
金翰が委員となっていた社会主義者の大衆団体や、接触していた非合法団体との関連強く追求している  


立松
はあわよくば、それらの団体と朴烈の爆弾入手計画につなげ朝鮮の活動家たちを刑法七三条、大逆罪にも結びつけたいという魂胆があったのだろう。

 

 

活動


第一回からの訊問調書の内容に即して概要を記す。


金翰京城西大門刑務所の既決囚、京城府出生地で一九〇八年より中国吉林省に本籍がある三八歳の人物である。一九二三年一〇月一〇日に京城覆審法院において爆発取締罰則などで懲役五年の判決を受けその後三年九ヶ月に減刑されている

 
中国各地で植民地化を憂いて活動を模索していたので一九一九年四月八日に組織された上海仮政府の幹部と皆知合いであった。そのため仮政府の秘書局長に同年一二月よりなったが実務を執ることなく二〇年一月頃に京城に戻っている

 
義烈団には加入していない。思想問題の研究、労働者の教育が目的であった無産者同盟会の委員を十数名の同志と共に組織し京城の安国洞に事務所があった

 
朴烈の名前だけは以前より知っていた。二二年九月頃、京城に来たときに会合の席上多数の者と共に居る朴烈と初めて会った

 
信濃川虐殺事件に関する演説会を慶雲洞の天道教会にて開催、朴烈も演説をした。数日間滞在同盟会の事務所に二、三回私を訪ねて来た


一一月に再び朴烈が京城に来る。当時は観水洞に事務所があった。朴烈は三日間位滞在した

 
目的の一つに
『太い鮮人』の支局を設置したいということがあったと語っている

 

 

依頼


第二回は八月二一日

 
朴烈の旅費、行動費用を負担したのではないかという訊問に対して
金翰は朴烈が帰る時にのみ堅志洞に事務所があった労働共済会の会員に餞別を出させた、と答えている。


金翰自身の犯罪の事実は如何なる事であったかという訊問に対して。

 

一九二〇年一月京城に戻ったが「満州に居た時知合いになった義烈団員黄尚奎が度々訪ねて来た。(当時は団員とは知らなかった)

 
二二年夏か秋頃に訪ねて来た義烈団員、李応明(本名は南寧得)から「義烈団から依頼事があった場合は引き受けるか」という抽象的な話が出される。そして金翰雑誌発行の資金の世話を頼んだという。

 

 

 



金翰(キ厶・ハン)の証言 Ⅱ


301


金翰

 なぜ金翰(キ厶・ハン)の訊問調書を検証するのか。朴烈は東京地裁における予審で時期は異なるが爆弾入手を企図し斡旋を頼んだ四人の名を挙げている。  

 

日本人船員の杉本貞一、東京に短期に滞在していた崔爀鎮(チエ・ヒョチン)、京城在住の金翰、一九二三年春に不逞社に参加した金重漢(キ厶・ジュハン)である。  

 

崔爀鎮以外の三人は東京地裁で予審訊問の調書が作成されている。それによれば当人たちは爆弾の製造、所持には全く関わりがない。

 

三人の中で唯一、爆弾の存在に近かったのは金翰である。

 

彼は当時、上海を活動拠点としていた義烈団から京城での爆弾保管を依頼されていた。後に断ったので実際に爆弾を手にしたことはなかったが朴烈に対して爆弾斡旋の可能性を有していたということになる。この経緯が訊問調書に変遷はあるが記録されている。 

 

崔爀鎮

 

崔爀鎮に関しては朴烈の予審訊問調書で一方的に言及されているだけであり、官憲が崔爀鎮の所在を追求するも追及できなかった。  

警視庁内鮮係長の立山合戦が一九二四年四月十六日付けで東京地裁の石田検事宛に報告書を提出している。 

 

件名は「要視察人朴烈の関係者に関する件、原籍住所不詳、要注意鮮人崔爀鎮」。  

 

本文は以下の内容。「一九二二年一月頃東京府下、下戸塚町七五五番地、長白寮方止宿、原籍京城府水下町十番地。正則英語学校生徒、李泰益(イ・テイック)、同李泰雄(イ・テウン)の両名を頼り同人等の食客となり約二、三ヶ月滞在し其間朝鮮筆を取り寄せ行商をなしたる事ありしが、其の後帰鮮と称し出発所在判明せざるものに有之。総督府警務局に照会中」。

つまり照会中のままであり結局所在が判明せず調書が作成できなかったのである。  

 

杉本と金重漢は爆弾とは無縁であったにも関わらず、朴烈に対して爆弾斡旋の当てがあるように応答してしまう。

 

 理由

大審院第二特別刑事部(判事、豊島直通、磯谷幸次郎)による「公判開始決定」(一九二五年十月二十八日)の理由は「被告朴準植(朴烈の戸籍名)は帝国政府の治下に在るを憚らず陰に朝鮮の独立を計る異図を蓄え…」と始まる。

「帝国の基礎を破壊して反逆的復讐を為さんと欲し、畏れくも、天皇陛下又は、皇太子殿下に対し危害を加え奉らんことを企て、或は人に嘱して海外より爆弾の輸入せんとし或は人と会して其の輸入を謀議したるも未だ之を得る能わずして被告金子文子と相識るに至り、…」、

「準植は大正十一年十一月頃京城に赴き当時帝国政府に反抗する目的を以て組織せる上海の暴力団体と連絡して爆弾を朝鮮に輸入することを計画せる金翰と会見し其の分与を申入れて承諾を得…」と記され、日本帝国の植民地下の朝鮮で独立運動に参加したこと自体がまず罪となり、日本帝国の支配を解体し天皇・皇太子を打倒の対象とするため、爆弾入手を計ったことが罪状とされている。

爆弾入手に関しては予審の調べが曖昧で具体的な証拠を欠くと判断したのか、「理由」で名を挙げているのは義烈団とつながりがあった金翰と不逞社に参加した金重漢の二名だけである。金重漢は爆発物取締罰則違反で本裁判に至った。

 

 

 

依頼

金翰の訊問調書の概要を引き続き記して行く。  

金翰の証言。〈一ヶ月くらいを経て南寧得(ナム・ヨンドック)が来て「爆弾の輸入をしたいので受け取って置いといて貰いたい」と申したので、「その爆弾は如何にするものか」と聴くと、金元鳳(キム・ウォンボン、義烈団の中心人物)よりの伝言として「別に人が来る事になっている故、其の人に渡して呉れ」との返事があった〉と語っている。

 

上海を拠点とする義烈団の秘密工場で製造した爆弾を朝鮮に秘かに運び込むので同志が受取に来るまで保管して欲しいと頼まれたのである。    

 

そして金翰は合法的な雑誌発行の資金として南寧得から一五五〇円を受け取る。  

 

試行

〈二ヶ月ばかりして朴善(パク・ソン)という者が来て「金元鳳から派遣されて来たのだが、爆弾の輸送が都合よく出来るかどうか試しに来た」、「爆弾を少しだけ安東県迄持って来た故、近いうちに京城に到着するはずなので受け取って置いて欲しい」と云い、いったん宿に立ち帰った。朴善は一週間か十日して訪ねて来て、京城と安東県の間は爆弾の輸送が都合良く行かぬらしいので、いったん安東県まで引返して結果を知らせるとして出発した。〉と証言をしている。  

 

 

破綻

〈その後、朴善から連絡が無いので上海の金元鳳宛に暗号文で問合せをすると「朴善は都合により上海に戻っている。何れ更に依頼をする故に其の際にはよろしく頼む」との返事が来たので、私は依頼された爆弾保管の件を一切取り罷めることにして、金元鳳に依頼拒絶の書面を送った〉、と証言。  

 

そしてこの一連の経緯が〈私が有罪の判決を受けた事実の内容です〉と答えている。   

 

金翰自身も結局は爆弾の実物を手にすることはなかったのである。しかし義烈団の金元鳳からの依頼で京城において爆弾の保管を約束した事実(使用目的も聴かず後に断りの書面を出している)に対して爆発物取締罰則を適用されたのである。そして朴烈との関係をさらに追求されて行く。

 

金翰(キ厶・ハン)の証言 Ⅲ 2013年2/3/4月号

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